八王子の景色   大江廣元邸址                                                [戻る]



金沢街道からハイランド方面への分岐点となる明石橋交差点の
近くに大江広元邸址の碑が建っている。

大江廣元邸址
大江氏奕世學匠トシテ顯ル嘗テ匡房兵法ヲ以テ義家ニ授
廣元ハ其ノ匡房ノ曾孫ナリ頼朝ニ招カレテ鎌倉ニ來リ
常ニ帷幄ニ侍シ機密ニ産參畫ス幕制創定ノ功廣元ノ力與
リテ多キニ居リ相模毛利莊ヲ食ム子孫依リテ毛利ヲ氏トス
而シテ因縁
竒シクモ此ノ幕府ノ創業ノ元勲カ七百年後末裔
ハ王政復古ニ倡首タリ此ノ地即チ其ノ毛利ノ鼻祖大膳大夫
ノ邸址ナリ
   大正十四年三月建           鎌倉町青年團

公文所(政所)の別当に任じられたことで大江広元は知られるが、
八王子とのつながりも深いものがある。










1213年の和田合戦で活躍した広元には、恩賞として数多くの所領
が与えられた。和田義盛に与して滅んでいった横山党の所領も含ま
れており、長井荘(現山形県長井市)や相模毛利荘(現神奈川県厚
木市)もその一部である。

広元から長井荘や横山荘などを継いだ二男・時広は長井荘に居を
定め(後の米沢城の起源となった)、長井姓を名乗る。
だが、長井荘を狙う伊達宗遠の侵略により長井時広は長井荘を追
われて横山荘に逃れてくることになる。

この長井氏一族が湯殿川流域を拠点として、高乗寺、広園寺、椚田
城、片倉城などを築いていくのである。

後年、山内上杉と扇谷上杉氏が争う長享の乱の最終局面で長井氏
は越後上杉氏の軍勢に攻められて一族は椚田城で滅亡した。