八王子の景色   河越夜戦跡                                                   [戻る]



山内上杉氏、扇谷上杉氏、古河公方が北関東において、消耗戦ともいうべき
勢力争いをしている間に、勢力の空白地帯となった南関東には後北条氏の祖
・伊勢宗瑞(北条早雲)が進出していった。

大永4年(1524)早雲の嫡男氏綱は江戸城を奪取、城主であった扇谷上杉
朝興は河越城に敗走する。
享禄3年(1530)上杉朝興は江戸城を取り返すべく出陣するが、初陣となった
北条氏康の軍勢に完敗を喫してしまう。
朝興の死後、扇谷上杉家の家督を継いだ朝良は、父の念願であった北条氏
撃滅を図るが、逆に北条氏康の軍勢に攻め込まれてしまい、河越城を捨てて
配下の難波田弾正が守る松山城に退くことになってしまう。

天文14年(1545)それまで反目しあっていた古河公方・山内上杉氏と扇谷上
杉氏は、北条氏の版図拡大に危惧を抱いて、連合軍を結成して、北条綱成が
守る河越城を8万の軍勢で取り囲むが、綱成はどうにか持ちこたえて、翌天文
15年(1546)4月、河越城救援に向かった北条氏康がめぐらせた計略によっ
連合軍に奇襲をかけると同時に綱成率いる軍勢も城から討って出て、激戦の
末北条勢が奇跡的な大勝利をおさめた。

この戦いが日本三大奇襲戦のひとつに数えられる河越夜戦である。

扇谷朝良は討死のため扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉当主憲政は平井城に
逃れるものの、北条氏の追撃により越後の長尾景虎のもとに身を寄せ、関東
管領職と上杉の名を譲ることになる。



関東戦国の一大転換点となった河越夜戦の中でも激戦の地と伝わる東明寺に
河越夜戦碑(碑は川越夜戦跡と表記)が建っている。

市指定史跡 川越夜戦跡
川越夜戦は、今から四百余年前、河越城争奪のために起こった戦いで、東明寺
附近が激戦の中心となった。よってこれを一名東明寺合戦とも呼び、日本の大
夜戦のひとつである。
もともと川越城は、長禄元年(一四五七)扇谷上杉持朝が、執事太田道真、道灌
父子に築かせたものであるが、天文六年(一五三七)に北条氏綱に占領された。
その後扇谷上杉朝定のときにいたり、山内上杉憲政、古河公方足利晴氏と組み、
川越城を奪還すべく天文十四年(一五四五)十月、八万余騎をもって川越城を
包囲した。
これに対し半年あまり籠城し、ひたすら防戦につとめていた川越城将北条綱成
は、翌十五年(一五四六)四月二十日の夜、小田原から来援した、黄八幡北条
氏康の八千余の軍勢と呼応し、三千の城兵を率いて出撃し、連合軍を壊滅した。
この戦いに上杉朝定は討死し、これを境に北条氏は、関東地方に一大勢力を
樹立するにいたった。
    昭和五十五年文化の日
                     東明寺五十二世   朝日龍幹   撰文
                     勲四等八十九歳   山崎嘉七   揮毫
                                   同人       建立

東明寺は、観光客で賑わう蔵造りの町並みを北にまっすぐ通り抜けて、静
かな町並みが続く突き当たりにある。