八王子の景色   加賀塚                                                              [戻る]


JR中央線日野駅から北に200m程歩くと、「加賀塚公園」がある。
公園の名となった「加賀塚」は日野市指定遺跡であり、滝山・八王子両城の
城主であった北条氏照の家臣・竹間加賀入道の墓所である。
公園の入口に日野市が建てた説明板がある。

加賀塚公園
公園内にある塚は加賀塚という。広さ3m四方、高さ50cmで、塚上に高さ50cm
くらいの自然石の墓があり、榎が1本自生している。塚の主は戦国時代の武将
竹間加賀入道で、小田原北条氏に仕え、日野本宿に住し、日野に知行地を有
していた。
竹間加賀入道は、豊臣秀吉が関東に兵を進め北条氏と交戦、八王子城も落城
した天正18年(1590年)6月の前、2月にこの地で自害したとつたえられる。
昭和15年(1940年)子孫の竹間弥惣次氏により供養墓碑が建てられている。
                                         日野市

公園の中に入ると、奥の芝地に大きな樹が見え、ここに加賀塚がある。

塚は経年のためか高さがなくなっているが、自然石の墓碑と2基の石碑、そして
まだ新しい卒塔婆が墓地であることを示している。






市指定史跡
加賀塚(竹間加賀入道の墓)
竹間加賀入道は、小田原北条氏に仕え、日野本宿に住み、日野に知行地を有した
武士である。また鉢形城(埼玉県)の守備にあたったとも伝えられ、その名は佐藤
c家の古文書(北条氏照印判状)にもみられる。
豊臣秀吉が関東に兵を進め、北条氏と交戦状態に入った天正18年(1590)2月
8日鉢形城から帰りこの地で切腹したという。八王子城が豊臣勢の攻撃で落城す
る4ヵ月前のことである。
    昭和60年3月                       日野市教育委員会

(加賀塚の説明板より)

墓前の石碑には、
加賀塚 竹間加賀源正延入道□海/天正十八年二月八日卒/
紀元二千六百年昭和十五年二月/三百五十年祭十四代孫弥宗次建之

とあり、その右に立つ石碑には、
四百年の靈神ここに奉る/此許迎感無量也/平成弐年弐月初八日/
第十四代子孫 宗男

とある。

竹間加賀入道は、天正14年3月9日付日野惣郷等に対して発給された竹木の
伐採を禁ずる北条氏照朱印状にその名が見える。
(参考:下山治久『八王子城主・北條氏照』)
豊臣の来攻を前にして、鉢形城の守備を離れ、本拠で自害したのは、相当の理由が
あったに違いないが、その理由を示す文書等は見つかっていない。