八王子の景色   足利公方邸舊蹟                                                [戻る]



大蔵幕府跡から金沢街道を東に進み、浄妙寺4丁目の街道
を少し入ったところに
足利公方邸舊蹟」の石碑がある。

足利公方邸舊蹟
頼朝開府ノ初足利義兼居ヲ此ノ地ニ卜シテ以来二百數十年
間子孫相嗣イデ此ニ住ス尊氏覇ヲ握リテ京都ニ遷ルノ後其
ノ子義詮二代将軍トナリテ京都ノ邸ヲ嗣ギ義詮ノ弟基氏關東
管領トナリテ兵馬ノ權ヲ此ノ邸ニ執ル而シテ之ヲ子孫ニ傳フ
子孫京都ニ此擬シテ公方ト僭稱ス享徳四年公方成氏執事
上杉憲忠ト不和ノ事ヨリ下總古河ニ遷ルニ及ビテ遂ニ永ク廢
墟トナル
   大正九年三月建之           鎌倉町青年會

足利公方、すなわち鎌倉公方は足利尊氏の子・基氏に始まる。

後醍醐天皇が派遣した朝廷軍に勝利した尊氏は、拠点を京に
置くか、鎌倉に置くかの選択に迫られる。
京に拠点を置くことを選んだ尊氏だが、東国武士達を束ねる
ために鎌倉に鎌倉府を置いて、我が子基氏を鎌倉公方として
派遣する。









しかし、東国十か国という広範囲を統括する鎌倉公方は、強力な
権力を有していて、次第に幕府から離れ独立性を強めていく。

第4代鎌倉公方足利持氏は、第6第将軍足利義教が将軍に就任
の際に自分が将軍になろうとし、それが実現しなかったことを恨み
に思い反乱を起こすが後自害する。(永享の乱)

持氏の遺児・成氏は、父親と対立していた関東管領家に復讐を
謀り、これも反乱を起こすが、結局鎌倉には戻れずに下総古河
に入り古河公方を称する。(享徳の乱)

これにより、鎌倉公方は終焉を告げ、古河公方を含めた関東公
方という呼び名となっていくのである。

尊氏が望んだ京都と関東の2元体制は体制は脆くも崩れ、関東
は応仁の乱に先駆けて戦乱の時代に突入してしまう。