八王子の景色   北村透谷生誕地                                            [戻る]

箱根駅伝のコースとして知られる国道1号に面して建つマンションの
一角に北村透谷生誕地の碑が建っている。

北村透谷生誕地
近代文学の先駆者北村透谷(門太郎)は、明治元年(1868)
小田原藩士北村玄快の息、快蔵の長男としてこの地の同番地国道
筋に生まれた。近年、この生誕の碑を現在地に移した。
父上京後は祖父夫婦に育てられ、この地より啓蒙学校(城内小学校
の前身)に通い、近くの海岸で遊んだ。明治14年(1881)父母と共に
上京し、京橋の泰明小学校に学び、その頃から神童と呼ばれていた
という。この小学校の同窓に島崎藤村がいる。
のち、政治を志したが、人生問題に悩んだ末文学の道に入り、明治
22年(1889)に「楚因之詩」を自費出版し、以後「蓬莱曲」を初め
数多くの作品を発表し、明治26年(1893)には島崎藤村などと雑誌
「文学界」を創刊し、すぐれた評論や詩を書き残した。明治27年
(1894)5月、東京芝公園内の自宅で自らその生涯の幕を閉じ、
芝白金台町の瑞聖寺に葬られたが、現在は城山の高長寺の北村
家墓所に改葬された。なお、この碑の揮毫者は、透谷の唯一人の
娘堀越英子である。
小田原城址公園内には、島崎藤村揮毫の文学碑が建立されている。
(碑前の説明板より)



透谷は、その作品「三日幻境」の中でこう記している。

われは函嶺の東、山水の威霊少なからぬところに生まれたれば、
我が故郷はと問はゞそこと答ふるに躊躇はねども、往時の産業は
破れ知己親縁の風流雲散せざるはなく、快く嚋昔を語るべき古老の
存するなし。山水もはた昔時に異なりて豪族の専横をつらにくしとも
思ううなじを垂るゝは流石に名山大山の威霊も半死せしやと覺えて
面白からず。「追懐」のみは其地を我故郷とうなずけど、「希望」は
我に他の故郷を強ゆる如し。

(北村透谷『三日幻境』より)

透谷にとっての小田原は、もはや郷愁など感じることのない場所と
なってしまっている。
小田原から移り住んだ地の「数寄屋橋」の「すきや」から「透谷」と
いう名を付けたのは、そうした感情もあったのだったのだろうか。

孤高の天才は、後を振り返ることなく前だけを見て進んだ。
その生涯の出発点がこの地である。