八王子の景色   北村透谷墓                                                 [戻る]



小田原に生まれた透谷は、芝公園の自宅で自殺する。
透谷は小田原にあまり愛着を感じていなかったようだが、最後は
小田原の高長寺の墓地に眠ることになった。
自由民権運動へ情熱を傾けるが、大矢正夫との決別により運動
から身を引き、文学への道を選んだ透谷。
石阪美那と結婚したものの、生活は貧しかったという。
強靭な意思と明晰な頭脳の天才を次々と悲運が襲い、それらが
透谷の精神を次第に蝕ばんでいったのか。
墓石には「
透谷北村門太郎墓」とある。

北村透谷の墓
北村透谷は、本名を北村門太郎といって、明治元年十一月十六
日、小田原藩士北村玄快の孫として誕生し、近代浪漫主義文学
の先駆者として大きな功績をあげましたが、明治二十七年五月
十六日、二十七歳の若さで自らの生命を絶ちました。この墓は、
東京都港区白金台の瑞聖寺にありましたが、昭和二十九年五月
に挙行された透谷没後六十年祭のとき、高長寺に移されました。
                         小田原市教育委員会

(小田原市教育委員会の説明板より)