八王子の景色   宗関寺銅造梵鐘                    [戻る]


宗閑寺境内は八王子城主北条氏照の家臣であった横地監物の屋敷
跡であるといわれ、敷地内に残る「横地堤」はその名残りである。
この宗閑寺の境内の鐘楼に吊るされた梵鐘は、八王子市の文化財に
指定されている。

市指定有形文化財 宗閑寺銅造梵鐘
  所在地    八王子市元八王子町三丁目二五六二番地
  指定年月日 昭和三十九年七月二十三日
この梵鐘は、元禄二年(一六八九)七月十一日、宗閑寺開基北条氏照
百回忌供養のため鋳造されたものである。鋳工は椎名伊予良寛、同
兵庫重長と銘文にある。
寄進した中山信治は八王子城落城の折、討ち死にした中山家範の孫
にあたり、水戸藩家老・中山家三代目当主。
口径七二・五cm、高さ一・五mで、釣手に龍頭をあしらい、乳の間に
は一間五段五列の乳頭、草の間には連続唐草紋が鋳出されたみご
とな梵鐘である。池の間には、北条氏照百回忌追悼文が刻まれ、資料
的にも貴重である。
太平洋戦争中、元禄年間(一六八八〜一七〇四)以後の梵鐘は応召
されたが、市内ではこの梵鐘等数点のみが残されているだけである。
  平成十六年三月三十一日
                          八王子市教育委員会
(八王子市教育委員会の解説板より)






城主氏照が不在の八王子城を守備していたのは、老臣、婦女子、農民、
職人、などであった。
反豊臣の急先鋒であった氏照の居城を北条側への見せしめとするた
めか、調略や奇策を用いて「殺さない戦」を仕掛けてきた秀吉が生涯
で唯一皆殺しの殺戮戦を命じたのが八王子城攻めだった。

苛烈な寄せ手の攻撃に対し、城方は必死の防戦で挑むが、多勢に無
勢、前田利家・上杉景勝の軍勢は次第に山頂へと攻め寄せる。
本丸下・中の曲輪を守備する老臣中山勘解由家範は、寄せ手の攻撃
を必死に食い止める奮戦を見せる。前田利家から、「死なせるには惜
しい」と助命を勧められるが、これを拒否して討死をしてしまう。

家範の勇猛な戦いぶりを聞き、徳川家康は後に家範の2人の息子を
家臣として召し抱え、家範の孫にあたる中山信治は御三家である水戸
家の付家老になるまでの出世をする。
この信治が、祖父家範の100回忌にあたり宗閑寺に寄進したのが、
この梵鐘である。

激闘の中で、武士の鑑ともいうべき忠義と勇猛な戦いぶりを見せた家
範とそれを正当に評価した前田利家、2人の武士道精神が美しい。