八王子の景色   力士 八光山権五郎                 [戻る]


新町・永福稲荷神社境内に近年建てられた石像は、江戸時代の
力士・八光山権五郎の像である。

八光山権五郎といってもほとんど知られてはいないのではない
だろうが、たいそう強い力士であったという

同じ神社の境内に建つ「祀廟碑」には権五郎の経歴が書かれて
いるが、漢文体であるため読むのは難しい。
像の隣に置かれた説明板を読んでみる。










力士八光山権五郎
八光山権五郎は江戸時代中期(寛延・宝暦)に活躍した八王子出身の力士です。
身長六尺三寸(百九十一センチ)、体重不詳、嶋屋という絹問屋の後継ぎで商売
をしながら相撲をとっていました。当時は大阪、京都で勧進相撲が盛んに行われ
ていました。現在のように相撲協会はなく、相撲が開かれる場所へ自前で出かけ
て行き日本各地の力自慢捥自慢が、日本を東西に分けて地元出身地を背負って
対戦しました。その時の番付には八光山の出身地は「江戸」とのっています。
八光山は八王子から相撲が開かれる場所へ旅立つ前には、必ず稲荷神社へ参
拝し旅の安全と必勝を祈願し亦帰郷した折にも境内で勧進相撲を奉納しました。
当時の力士は現在の力士が締めている半分位の丈で出来ている化粧廻し
締めたままで相撲をとりました。
相撲は神事と深いかかわりがあることから、五穀守護の神「倉稲魂命」の神前で
願いを込めて相撲を奉納したものとおもわれます。八王子史実を著してある塩
野適斎の桑都日記には、八光山権五郎が神明の霊徳によって天下第一の力士
になれば、神祠を再造して永くこの所において相撲を興行し神を祀ると祈誓し、
故郷を辞し去って三都及び四国九州を遊歴し、強く力のある者に逢えば相撲を
試み、遂には敵するものが無く、これを賞され時の天皇から御盃と錦のまわしを
賜り、帰郷後稲荷神社境内で相撲を興行したと記録されています。
力士八光山権五郎が六十二歳で没した後、毎年八月二日には近郷の力自慢
によって相撲が奉納されるようになりました。
(永福稲荷神社境内の「永福稲荷神社と』力士八光山権五郎由緒略記」より)

八光山権五郎は抜きんで出た強さを持つ力士であった。

権五郎の容貌などを伝えるものは残っていないため、像の製作にあたっては、
ご子孫の顔などを参考にされたと聞いたことがある。