寺山修司墓 [戻る]
寺山修司という人の名は知っていたが、テレビで東北の言葉で熱く語って
いたという人という印象しか持っていなかった。
先日、テレビで『昭和偉人伝 寺山修司』(BS朝日)という番組を見て、
寺山修司という人を知ることができた。
番組によると、寺山修司氏は1935年に青森県で生まれ、1983年に47
歳で永眠した。
詩人、劇作家、映画監督、演出家、競馬評論家、ボクサーなど多彩な才能
を持つ人で、自身の職業を聞かれると「僕の職業は寺山修司です。」と
答えたという。
「時には母のない子のように」という歌は小さい頃に聞いた記憶があるが、
作詞は寺山修司氏ということも知らなかった。
この歌の歌詞は、昭和20年の青森大空襲の後に、三沢の親戚の家に
母子2人で(父親は出征し戦死)間借りし、三沢ベースキャンプで働いた
母親への愛と憎しみが生んだものだという。
「あしたのジョー」の主題歌も寺山氏が作詞したもので、1970年3月24
日には、葬儀委員長として『力石徹の葬儀』を執り行った。
この葬儀は、アニメの人物の葬儀を実際に行ったということで、当時は
かなり話題になったことをよく覚えているが、寺山氏の企画であることも
知らずにいた。
象られている墓碑には寺山修司の文字が刻まれているが、これは本人の
自筆の文字と思われる。
寺山氏が世に出した人には、丸山明宏(現:美輪明宏)、三上博、横尾忠則、
コシノジュンコ、高橋ひとみなど錚々たる人々がいる。
20代前半に、生死の境をさまようほどの重いネフローゼにかかり3年間の
闘病生活を送ったことで、自分の世界をクッキリと輪郭を持って作り出して
いくようになった。
演劇実験室『天井桟敷』を旗揚げし、数々の伝説的な作品を発表。
杉並区の街中を舞台とした30時間の市街劇『ノック』は、批判や苦情も数
多く寄せられたという。
1983年5月4日に、再発したネフローゼにより入院先の河北総合病院で
永眠。47歳という若さだった。
番組でも、高尾霊園にある墓を紹介していた。
この寺山修司という人と、同世代に生きていて、その作品に触れる機会が
あったなら、寺山氏はもっと長生きをしていてくれていれば、また違う寺山
ワールドに接することができたのではないかと思うととても残念である。