八王子の景色   石平道人墓                                        [戻る]



長房町にある長泉寺の墓地に石平道人の墓がある。
石平道人といっても、その名を知る人は少ないのではないだろうか。
市指定史跡
石平道人墓
石平道人は、江戸時代初期の禅僧で俗名を鈴木正三といい、萬松山
堅叔庵の開山である。
庵は明治初年に廃庵となったが、当時下長房の豪族であった井
上出羽が庵を建てて正三道人と弟子恵中を招き、教化を受けたと伝え
ている。
正三はもと徳川家の家臣で、歴戦の勇士であったが、元和元年(一六
二〇)四十二才で出家し禅門に入ったが、一宗一派に属さず「南無大
強精進勇猛仏」の信仰を唱え、仁王禅を提唱した。
また浮世草紙の源流と言われる仮名草紙本の代表作「二人比丘尼」
「因果物語」等多くの多くの著作がある。
明暦元年(一六五五)六月七十七才で没した。
なお、現在の墓所は、昭和二年多摩御陵造営にともない、「庵の山」
(御陵総門の手前右側の小高い丘)からこの地に改葬されたもので
ある。
  昭和五十三年五月月三十一日
                           八王子市教育委員会
(八王子市教育委員会の解説板より)



墓地の入口。階段の途中に解説板があり、階段下にある石には、
(す)ゝきせうさん ひやう所 (( )内は欠損による欠字を補ったもの)の
文字が刻まれている。 
これは、
鈴木正三 廟所 のことで、墓地の標石である。

鈴木正三
1579年(天正7)〜1655年(明暦1)6月25日。禅僧。僧名石平道人。
三河足助の松平家家臣鈴木長兵衛重次の長子としてに生まれる。42
歳で剃髪遁世、各地を行脚。1648年(慶安1)ころ八王子に来住、今の
多摩御陵の東に、豪家の井上出羽が萬松山堅叔庵を創建して正三を招
いたと言われている。この時期は明らかではないが、48年以後晩年は
江戸に在住していた。長泉寺に正三坐像・長泉寺東側丘上に墓石があ
る。武士道精神に基づく独自の禅を起こす一方、世俗生活と信仰生活と
の一体を教えた。

(八王子事典の会「八王子事典」より)


鈴木正三の出身地の豊田市足助町には鈴木正三記念館があるという。