青郊碑 [戻る]
上恩方町・森久保の龍泉寺の門前。
石段脇の植込みの中に石碑がひとつ建っている。
植栽に囲まれて見過ごしてしまいそうな石碑には「青郊碑」の字が
刻まれている。
青郊碑
足利学校第十八世庠主青郊和尚は延享元年当所山室氏に生る
諱を元牧成子と号す 天明七丁未年十二月十二日台命を蒙り入庠
十八年に及び在庠し足利学校記十一巻を著す 文化七年十二月
二十五日卒し同校に葬らる 年六十七 前住建長青郊和尚禅師武州
八王子森久保村山室氏文化七庚午年十二月二十五日と刻める
墓石現に存す 茲に郷土の有志相議りて先賢の偉蹟を表し之を建つ
「足利学校」とは、日本で初めて作られた学校だと日本史の授業で
教わったような気がするが、記憶は曖昧だ。
インターネットで検索すると、
「足利学校は日本で最も古い学校で、その遺跡は大正10年に国の
史跡に指定。創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時
代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがあるが、歴史が明らか
になるのは、室町時代の永享11年(1439)関東管領・上杉憲実が、
現在国宝に指定されている書籍を寄進し、鎌倉円覚寺から僧・快元
を招いて初代の庠主(しょうしゅ=校長)とし、足利学校の経営にあた
らせるなどして学校を再興してから。」
(『足利市ホームページ』より 一部修正して記載)
関東管領上杉憲実といえば「永享の乱」で足利持氏と対立した人物。
その憲実が中興に関わったのだから足利学校の重要さがわかる。
足利学校の庠主(校長)を務めた人物が、この森久保の地から出た
というのはほとんど知られていないのではないか。
青郊和尚は第18第庠主として天明7年(1787)から18年間務めた
が、驚いたことに享保10年(1725)から31年間、第16代庠主を
務めた月江という人物もまた、武州八王子の人であるという。
(参考:『足利市ホームページ』)