八王子の景色   大石定久公墓所                                           [戻る]



由木・永林寺の墓地の一角に大石定久公墓所がある。
永林寺は、大石定久公の居館であったものを、定久公が滝山城に
移るにあたり、叔父の一種長純和尚に譲り永鱗寺として創建された
と永林寺の解説に書かれている。

大石源左衛門尉定久公墓所
武相十郡の太守滝山城主大石定久公の公墳である。大石定久公
在城中に此の地に居館があった。
大石定久公は、高月城主大石定重の子として延徳三年三月二十三
日にお生まれになり、幼名を丑丸と申された。長じて由木と浄福寺
に城を持ち、更に大永元年二月、父定重と共に滝山に城を築き大永
七年家督を継いで滝山城主となられた。
没後、猿丸峠の頂上に埋葬され(当時永林寺の境内地は平山街道
より猿丸峠まで)文化八年(一八一一年)永林寺二十五世住職によ
って、此の地に改葬された。定久公の墓石の両側には、家臣(後に
北条家の家臣)の墓が連なっている。
天文十八年二月七日没
行年五十八歳
戒名 当寺開基 久彰院殿英巖道俊大居士 零位
(説明板より)







「像・彫刻」の『大石定久公像』で書いたが、「大石定久」の名が文書
として残っているのは、八王子市下由木伊藤家所伝の「木曽大石氏
系図」だけであり、大石定久と道俊(法名)を同一人物としているのも
この系図だけとなっている。

大石氏に関する研究が進み、「木曽大石氏系図」の記載内容に関し
その信頼性が疑問視されているが、上掲の説明板の内容はその多
くが「木曽大石氏系図」に依っている。

大石定久公という人物に関しては、研究や新文書の発見を待つより
他にないようだ。