植田孟縉墓 [戻る]
植田孟縉が編集した「武蔵名勝図絵」は、多摩地域の歴史を学ぶ上で
欠くことのできない地誌となっている。
江戸幕府が編纂を目指した「新編武蔵風土記稿」にも参加した孟縉が、
風土記稿とは異なる独自の目線で武蔵郷を綴った「武蔵名勝図絵」は、
挿絵も豊富で、内容も大変充実したものになっている。
東京都指定旧跡 植田孟縉墓
所在地 八王子市滝山町一の四八八 宗徳寺地内
標識 大正十五年四月
指定 昭和三〇年三月二十八日
植田孟縉は、宝暦七年(一七五七)に吉田藩医の子として生まれました。
一九歳のときに八王子千人同心植田家の養子となりました。字は君夏、
通称は十兵衛といい、雲夢斎とも号しました。
孟縉は、原胤敦や塩野適斎らともに「新編武蔵風土記稿」の編纂に携わ
りました。このほか、「武蔵名勝図絵」や「浅草寺旧蹟考」などの著作を著
わし、幕府から賞与を与えられています。八王子千人同心の組頭であっ
た孟縉は、江戸の文人墨客とも盛んに往来し、郷土においては多くの門
人を指導しました。
天保一四年(一八四三)、八七歳で亡くなりました。
平成二四年三月建設 東京都教育委員会
(東京都教育委員会の説明板より)
「武蔵名勝図絵」巻末の「雲夢斎植田孟縉先生略年譜」(八王子知新会
編による)によると、孟縉は天保十四年(一八四三)十二月七日病に臥し、
同月十四日、八十七歳で没し、八王子八木町番蟠竜山宗徳寺に葬られ
た。
墓碑の碑面からすると、この墓碑はその当時のものであろう。
八王子を探索する上で、偉大な先人の大きな功績はとても重要である。