興林寺の弘安の板碑 [戻る]
興林寺の境内に、鎌倉時代の弘安年間に作成された板碑が
保存・公開されている。
市指定有形民俗文化財 興林寺の弘安の板碑
所在地 八王子市子安町四丁目四番八号
指定年月日 昭和三十一年七月二十八日
この板碑は、弘安六年(一二八三)に建立された。
大正の中ごろに、歴代住職の墓地に頭部が少し見える状態で埋没
していたものを掘り出して、現在の位置に保存するようになったと伝
えられている。
側面は古様を示す方形加工で頭部は欠損しているが、上部に刻ま
れた阿弥陀の梵字は見事である。また、蓮座の下に記された大日
三種悉地真言は、全国的に見ても希少な例である。
なお、この板碑は市郷土資料館で所蔵している文永八年(一二七
一)の板碑に次ぐもので、鎌倉時代の資料としても貴重である。
平成二十一年一月三十一日
八王子市教育委員会
弘安といえば、第2回蒙古襲来の弘安の役(1281)があった時代で
あり、板碑はその2年後に造立されたものである。
『高さ一一一、幅三六、厚さ5cmの緑泥片岩で作られ、頭部の山
形は欠損しており、側面は古い様式を示す方形加工である。
身部の枠線は見られず、主尊キリーク(阿弥陀種子)は円形に囲
まれ、蓮座を伴う。これらの造形は完成期を示す見事なもので、
その下に大日三種悉地真言が見られる。』
(縣 敏夫「八王子市の板碑」 揺籃社 2005年)
板碑は、鎌倉中期から室町末期まで、約350年の間に造立され、
中世武士達がいつ、どこで果てるとも知れぬ時代の中にあって、
自己の死後のために「逆修」の仏事を修めたものだという。
(前掲書より)
中世武士が盛んに建てた板碑は、武士にとっての中心地である
鎌倉へ向かう道に集中して見られる。
鎌倉街道と呼ばれる主要道とそこから派生する道は武士の領地
があったからであり、往時「横山」と呼ばれたこの八王子の地には
鎌倉幕府を支えた横山党と、それに属する小領主達が支配する
地であった。
興林寺の門前は、「小野路道」と呼ばれる古街道の起点である。