建武台之碑 [戻る]
長房町・東照寺の墓地に建武台の碑がある。
この碑が横山橋際にあることを知り、何度か探しに行ったのだが、結局見つか
らなかったが、たまたま訪れたこの場所で見つけた。
碑にはこのように刻まれている。
碑文
この碑の北方約五百メートルの台地に、かつて東京陸軍幼年學校があった。
昭和二十年八月二日未明の空襲で職員生徒十名が戦死、校舎は全焼。八月
十五日の戦争終結により、五十年の校史を閉じた。
本校は日清戰争後日本陸軍の中核となる將校を養成するため、明治三十年
に東京市牛込区本村町の市ヶ谷台に誕生。大正十年からの戸山台時代を経て、
昭和十九年春、南多摩横山村のこの地に移った。約十万坪のこの台上に學ん
だ生徒は、第四十六期から第四十九期生まで千二十三名。四十六期生卒業
式の昭和二十年三月十三日、朝香宮鳩彦王殿下により、建武台と命名された。
多摩丘陵から健児の雄叫が絶えて三十有六年。國敗れて山河ありとはいいな
がら、台上は全く変貌した。ここに戰死者の靈を悼み、我々の足跡をとどめる
ため、柴田孝夫教官のご好意によって碑を建てるものである。
昭和五十六年八月二日
東京陸軍幼年学校職員生徒有志
太平洋戦争末、東京陸軍幼年学校が戸山から八王子へ移転。
鉄道が集中する八王子は米軍から多摩地区の主要都市とみなされ、8月2日
未明に大空襲を受け、東幼校も空襲による被害を受けるのである。
建武台の碑に説明板が付けられている。
建武台之碑はかつて長房団地入口の南浅川に架かっている横山橋(御楯橋)
の南側に建立されていた。
その後、道路と橋の拡幅に際し移転の必要が生じたため、東幼校の西側に所在
している長房山 東照寺にお願いしたところ、ご好意を頂き此処に移築された。
この移築により碑文中の「この碑の北方」は「この碑の東方」ということになる。
東方の大地とは眼下に広がる長房団地一帯のことである。
なお、この碑の台座に東幼本部建物の正面に掲げられていた「菊花 御紋章」と
「校門標札」が納められている。
平成十六年四月
東京陸軍幼年学校職員生徒有志
東照寺の墓地には、建武台の碑と東幼観音、放鯉記念碑と東京陸軍幼年学校
に関わる3点が並んで置かれている。