萩原橋の碑 [戻る]
浅川に架かる萩原橋の袂。
植栽に囲まれた場所に石碑が建っている。
石碑の表面には数多くの出資者の名が記されている。
また碑陰には次の文が刻まれている。
曩キニ東京府ハ二道ノ橋梁ヲシテ一橋ニセント企テタリ依之吾人等
思ヘラク是將サニ商工業ノ發展ニ一大支障ヲ加フルモノナルヲ以テ
遂ニ有志ノ協賛ヲ得テ明治三十三年一月二十七日東京府ノ公許ヲ
得テ浅川ニ橋梁ヲ架セリ於之橋梁費及土地買収費等一万三千百三
十五円餘ノ費ヲ要シテ工事落成シ一般交通者ノ便ヲ得ルニ至ル
凡ソ交通機関ノ必要ハ論ヲ待タズ決シテ私有スベキモノニ非ザレヲ
以テ明治三十六年二月東京府二獻納シテ吾人等ノ素志ヲ貫徹スル
ニ至ル依テ將来ニ於ケル記念トシテ碑ヲ建テ協賛者ノ芳名ヲ永ク
傳ヘント欲シ之ヲ表面ニ記スト云爾
明治四十年五月
出願員 萩原彦七 今井亮海 山田義敬 野口由蔵 井上梅之助
橋本喜市 井出茂登吉 高野勝太郎 井上巳之助
八王子町 石工 麻生丈助鐫
清水正之氏の著書、『八王子 中野わが街』に萩原橋の名の由来
が書かれている。
「記念碑の表面には、八王子・楢原・犬目・川口・加住・五日市等
の協賛者(寄附者)約二百五十名の氏名が刻まれている。
しかし、協賛者から集めた寄附金が、一部の不心得者によって
使い込まれてしまったため総工費一万三千余円の殆どを彦七が
負担したという。かくて明治三十三年一月、延長約百十三メートル、
幅員約四・五メートルの木橋が完成したが、橋の名前は最大の
功労者、萩原彦七の名をとって「萩原橋」と名付けられた。」
(清水正之『八王子 中野わが街』より)
製糸業で成功した萩原彦七は、使い込まれた橋の工費の殆どを
肩代わりして橋を完成させた。
しかし、萩原橋が完成した年の生糸恐慌により製糸事業は不振
に陥り、事業を譲渡せざるを得なくなり、その後没落したという。
現在の萩原橋。