八王子の景色   中の曲輪                               [戻る]


高丸から小宮曲輪を巻くように登りつめると石段が見えてくる。
石段の先に見える八王子神社が鎮座する曲輪が中の曲輪。
この石段は後世に造られたもので、本来は中の曲輪の壁であった。

八王子神社の背後(西)には山頂曲輪(本丸と呼ばれる)があり、南には松木曲
輪が一段高い位置に、北にはそれよりも高い位置に東西に長い小宮曲輪が大
きな壁のようにそびえている。
これらの曲輪に囲まれ、最も低い位置にあるのが、中の曲輪である。

石段の手前に「史跡八王子城跡 本丸周辺の曲輪」という八王子市教育委員会
が建てた説明板があるのだが、そこには「本丸跡」「小宮曲輪」「松木曲輪」だけ
の記載で、中の曲輪の記載はない。
,また、松木曲輪の説明板には、松木曲輪が「中の丸」や「二の丸」と呼ばれて
いたと、断定的に記載している。

要害部の南東に位置する松木曲輪を「中の丸」と呼ぶとは思えないし、「二の丸」
の呼称は戦国時代の関東にはなかったはずだ。

要害部の曲輪の位置関係から考えても、やはり八王子神社があるこの曲輪が
「中の曲輪」にふさわしい。






八王子合戦の際は、老臣中山勘解由家範が、この中の曲輪を守備していた。
攻め寄せる前田利長、上杉景勝勢に対して中山勘解由は奮戦したが、最後は
力尽きて、老妻と刺し違えて自害したという。

その戦いの一部始終を見ていた前田勢が、関東に移封となった徳川家康に中
山勘解由の奮戦ぶりを伝えると、家康は勘解由の子照守、信吉兄弟を探し出し
て徳川家の家臣とする。
兄の照守は徳川秀忠の馬術指南役に取り立てられ、弟の信吉は家康の11男
で水戸徳川家の祖・頼房の附家老として出世していく。
八王子合戦における中山勘解由の武士として賞賛されるべき戦いぶりがあり、
また、勘解由の息子たちへの教育が行き届いていたからだろう。

現在は八王子神社が静かに佇み、ここで壮絶な合戦があったことなどを偲ぶ
ことなどできない。

中の曲輪には、八王子神社の社殿と神楽殿と横地監物を祀る横地社が建ち、
八王子神社の横には井戸跡が残っている。