八王子の景色   八王子城跡(1)                       [戻る]


八王子城は北条氏照が築いた「戦国最後の山城」といわれる。
八王子城の名は、深沢山に祀られていた八王子権現を城の守護神とし
たことに由来する。
築城の開始時期は定かではないが、天正10年(1582)頃とされ、天正
14年(1586)頃に滝山城から移転したと考えられている。

八王子城の城域は広く、城下に広がる家臣の住居域である根小屋地区、
城主が政務を執る山麓の居館地区、本丸を中心として山上部に構築され
た要害部と大きく3つに分けられる。

八王子城の特徴は石垣を多用していることである。深沢山は岩山である
ため石の調達は容易である。石切場から切り出した石を、曲輪の周囲や
登城道の保持などに使用している。特に、引橋から御主殿へ続く虎口や
石段は復元された石垣が続き見ごたえがある。

天正18年(1590)6月23日に秀吉の命を受けて北陸方面から攻め寄せ
た前田利家や上杉景勝の軍勢にわずか1日で落城する。
「調略」や「奇計」で敵や味方の人的被害を最小限に抑えてきた秀吉が、
生涯唯一の「殺戮掃討戦」を命じたのがこの八王子城攻めであった。




高尾山のケーブルカー高尾山駅から見る八王子城跡。
右側の台形状の高みが八王子城要害部。要害部左寄りの最高点が
本丸で、その右に小宮曲輪、小宮曲輪の手前に松木曲輪と並ぶ。

本丸から左へ下った地点に無名曲輪をがあり、その下が馬冷やし。
馬冷やしから左へ階段状に上がった高みが大天守(詰の城)。
詰の城のすぐ左に大堀切があり、さらに左へ上がると富士見台となる。
富士見台から手前に下り要害部手前の太鼓曲輪尾根へと続く稜線が
八王子城の外郭である。

手前に見える道路は中央道と圏央道を結ぶジャンクションで、圏央道の
トンネルは馬冷やしの真下を通り北へと抜けていく。

氏照は武田信玄の滝山城攻めによりその弱点を思い知らされ、滝山城
とは全く異なる城を構えることにしたのだろう。
武蔵から上野までの一帯支配、甲斐武田家への備え、鉄砲を使用した
戦いへの変化などがその理由であろうか。

天正18年、豊臣秀吉が派遣した軍勢が八王子城を攻め落としたことは、
北条氏の降伏による秀吉の天下統一、家康の関東移封、関ヶ原の戦い、
江戸幕府開府という歴史に繋がっていくのである。