八王子の景色   重忠橋                                                        [戻る]


鎌倉街道山の道は、鎌倉街道上の道から町田で分岐をした後に、
相原、大戸を通り長房、辺名を抜けてこの戸沢に通じている。

この先は秩父へと向かうのだが、武蔵七党の一つである西党の
秩父氏に畠山重忠がいる。
畠山重忠は、鎌倉に幕府を開いた源頼朝の有力御家人のひとりで
「武士の中の武士」と称される人物である。

その畠山重忠に関わる伝承や伝説がこの戸沢周辺には多く残る。
「畠山重忠の駒繋ぎ石」「「畠山重忠御手植えの桜」や田守神社に
伝わる伝承などがそれであり、そのためか川口川に架かる橋には
重忠橋の名が付けらている。

橋にあしらわれた桜のレリーフは重忠の清廉で潔さを表現している
かのようである。












この橋が架かる道は後世のもので、鎌倉街道山の道はやや離れた
所を通っているため、この橋の重忠橋と名付けるべきではないが、
実は、本来の重忠橋はここから北に少し行った場所にあり、そこは
鎌倉街道上なのである。

つまり、新設した道路に架かる橋の「重忠」の名を付けただけであり、
いわば名前だけの「重忠橋」なのである。

しかし、もう一つの疑問がある。
畠山重忠の居館は、嵐山町に残る菅谷館だといわれている。
菅谷は鎌倉街道上の道上にあるので、鎌倉へ向かうには上の道を
通るはずである。

だとすれば、戸沢地区に残る畠山重忠の伝承はどうなるのか。
疑問は残っている。