上杉憲顕公墳(上杉堂) [戻る]
高幡不動尊の境内に「上杉憲顕公墳」の額が掛かる小堂がある。
鎌倉府の初代関東管領に上杉憲顕という人物がいるのだが、
ここに墓がある憲顕は犬懸上杉氏憲の子である。
室町時代の関東については、歴史の授業ではほとんど触れられ
ないままで、その概観をつかむのさえ、かなり難しい。
犬懸上杉氏憲は「上杉禅秀の乱」で登場する「禅秀」であり、
この乱の結果犬懸上杉家は衰退する。
だが氏憲の子は殺されることなく生き延び、上杉軍に参加して
享徳の乱で鎌倉公方軍と戦っている。
上杉堂
上杉憲顕は氏憲の子、享徳四年正月(一四五五)足利成氏の軍と
立川原に合戦、深手を負い高幡寺に入り自刃した。自然石はその
墓標で、俗間信仰に茶湯石(服石)と言い、百か日忌払いの伝承が
ある。
(鎌倉大草紙)
(境内の説明板より)
上杉堂に掛かる額には「上杉憲顕公墳」と書いてある。
堂の中には、中央に大きな自然石が納められている。
江戸時代の地誌書『武蔵名勝図会』にこの石の記事がある。
茶灌石(ちゃそそぎいし)
自然石の丸き石なり。表に文字の形あれども不見。竪一寸七、八尺
許。(中略) 或云 この茶湯石は上杉憲顕の古墳なりと。このこと絶
えて伝えを失いしゆえ知れるものなきは、戦国の事なりしかば、所々
に古墳ありても、その人の知れざること多し。抑々上杉憲顕という人
は永享の頃、鎌倉管領上杉右衛門佐氏憲入道が嫡子にて、中務大
輔憲顕と号す。享徳四年正月廿一日上野勢の先鋒として公方成氏
朝臣と立川原にて合戦のとき深手を負いければ上野まで引き取るこ
となりがたく、この辺の古刹なりければ、ここまで漸く引き取りて自害
しけり。従者その遺骸を埋めて、石を以て標とせしものならん。
(植田孟縉著 片山迪夫校訂『武蔵名勝図会』より)