八王子の景色   扇谷上杉管領屋敷迹                                     [戻る]



扇谷上杉といえば、上杉定正の名が思い浮かぶ。

上杉家宗家の山内上杉氏に対して、庶子の扇谷上杉氏が、
享徳の乱や長尾景春の乱を通じて大活躍を見せる家宰・太
田道灌によって山内上杉家と並び立つ程になる過程は、
実に面白い。

扇谷上杉管領屋敷迹
内大臣藤原藤十三代ノ裔ニ重房アリ宗尊親王ニ從ヒテ
鎌倉ニ下リ食邑ヲ丹波國上杉莊ニ賜リテ始メテ上杉氏ヲ
稱セルカ其ノ曾孫憲顯管領基氏ノ執事ト為リテヨリ一族
勢力ヲ關東
ニ占ム門葉數家重房五世ノ孫顯定扇谷家ヲ
創ム文明ノ交扇谷六代ノ主定正賢臣太田道灌ヲ用ヒテ
家聲ヲ揚クルヤ世ニ宗家山内ト共ニ兩上杉又ハ兩管領
稱ス此ノ地即チ其ノ邸址ナリ

   大正十一年三月建之        鎌倉町青年團

実際には、扇谷上杉氏が関東管領職は拝してはいないが、
道灌の大活躍によって、両管領と称される程の地位を得た
のだろう。








しかし、定正は糟谷館に道灌を招いて浴室で暗殺する。原因は
定かではないが、山内上杉氏の陰謀ともいう。

糟谷を本拠としていた扇谷家だったが、山内家との対峙が始ま
ると、道灌が築城した河越城を居城として、鉢形城を居城とする
山内家と対峙する。

道灌暗殺以降、扇谷上杉氏は衰退の一途を辿り、山内家との
18年に及ぶ抗争・長享の乱において、最終的には降伏する。

この両上杉氏の抗争の間に、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が関東
に進出し、戦国の世が展開していく。