八王子の景色   赤浜の渡し                                              [戻る]



山内上杉氏と扇谷上杉氏が武蔵・相模を舞台に戦った「長享の乱」。
18年間続いた戦乱の間には2度の和睦の時期が認められ、第一次
から第三次までの3期に分かれる。

延徳2年(1490)12月の和睦で第一次抗争は終わるが、延徳3年
(1491)の堀越公方足利政知の死去を端緒とし、明応2年(1493)
に伊勢宗瑞が伊豆に進攻したことから、再び山内、扇谷の両勢力が
衝突する。

明応3年(1494)10月、山内上杉氏の居城鉢形城を攻撃に向かう
扇谷上杉当主定正は高見に着陣、同盟を結んだ伊勢宗瑞は塚田に
着陣、迎え撃つ山内上杉当主顕定は藤田・小舞田に陣を張り荒川
を挟んで両軍は対峙する。

10月3日定正は攻撃のため荒川を渡河しようとしたが、落馬して
頓死する。
大将を失った扇谷軍は居城の河越城に後退し、宗瑞も後退する。

このとき、定正が渡ろうとしたのが、ここ赤浜の渡しである。








『新編武蔵風土記稿』「男衾郡之三鉢形領之二」に記載されている
「川越岩」は、河川敷に残るこの大きな岩を指すのだという。

定正の死は、それまで優勢であった扇谷軍の勢いが失われ、守勢
であった山内軍が反功に転じる契機となった。
その
転機の地がこの
場所であると思うと感慨深いものがある。

長享の乱は、定正が家宰である太田道灌を殺害したことから、山内
と扇谷両軍が衝突したことから始まったのであった。


















上流方向には、山内上杉氏の居城鉢形城がある。