八王子の景色   北條早雲公像                                 [戻る]


戦国の世に知恵と武力で北條五代の礎を築いた北條早雲公像は小田原駅
の西口を出たロータリーの中央にある。
早雲公は自ら北條早雲を名乗ったことは無い。北條を名乗ったのは二代目
の北條氏綱からであり、北條早雲は亡くなった後の諡(おくりな)である。

北条早雲公略伝
北條早雲公(伊勢新九郎長氏、のち宗瑞、早雲庵。法名・早雲寺殿天岳瑞公)
は、戦国時代に相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関八州
のほか伊勢、駿河に勢威を及ぼした北條五代の祖である。
『北條記』によれば、明応四年(一四九五)伊豆韮山から箱根を越えて小田原
に進出した時、牛の角にたいまつを結んで大軍の夜襲に見せかけた、いわゆ
る「火牛の計」の戦法を用いて大森氏を打ち破ったという。その後小田原は
九六年間にわたり北條氏の城下町として繁栄し、東国一の都市に発展した。
早雲公は、東国の戦国時代の幕を切って落とした一代の風雲児と評され、一
般には乱世を生き抜いた猛々しい武将という印象を与えている。しかし、伝来
の北條家の家訓「早雲寺殿二十一ヶ条」において、早雲公は、身を慎み、礼
を重んじ、質素倹約を旨とすべきことを説き、学問、歌道に親しむことを奨励
している。実際は聡明な教養人であり、また公私にわたる日常生活において
も、つねに細心の注意を怠らなかった老練な苦労人でもあった。
                               北條早雲像建立期成会

(像の横に置かれた文章より一部を略して記載)



小田原駅西口のロータリー内に建つ北條早雲公の巨大なブロンズ像。

小田原の街を散策していて『小田原は北條氏の街』だなと感じる。
北條氏に関する旧跡や北條の家紋である『三つ鱗』などは大久保氏に
関係する旧跡などと比べて目にする機会が多いと感じた。
小田原の市民にとって、今日の小田原があるのは、早雲公以来の北條
五代の治世によるところが大きいということなのだろうか。

日本史の教科書に出てくる「北条早雲」は、何とばく暗記するだけの
漢字の羅列に過ぎなかったが、後北條氏への関心が増してくるに連れて、
自分が住んでいる土地に関連があると判ってくると、過去に生きていた
『人』として見えてくる。
歴史の授業に、その土地に縁のある人を取り上げれば、それをキッカケに
郷土や歴史への興味が拡がっていくのではないだろうか。
早雲公の像を見ながらそう感じた。