八王子の景色   蓮上院土塁                           [戻る]

延長約9kmに及ぶ小田原城総構。
丘陵部は土塁の外側に空堀を巡らし、敵の侵入を阻んでいるが、
平地部では土塁と川(水堀)によって小田原城域を守っている。
蓮上院土塁は、小田原の東側平地を守る総構の遺構で、平地部
に奇跡的に残る総構の土塁である。

蓮上院土塁
この土塁は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めに
対し、小田原北条氏が築いた総構の一部です。この土塁の東側は
水堀が設けられ、その対岸には徳川家康軍が対峙していました。
「北条五代記」では、この総構について「此城東西へ五十町、南北
へ七十町、めぐり五里の大城なり」と伝えています。実際には延長
9キロにおよぶ空堀と土塁が城下町全体を包みこむように築造され
ました。
低地部に展開した総構の多くは、いつしか姿を消してしまい、この
蓮上院土塁は早川口遺構(市内南町)とともに、その名残を止める
数少ない遺構で昭和34年に国の史跡に指定されました。
(説明板より)

平地部の総構は、都市開発などに伴いほとんどが姿を消している
が、わずかに残るこの土塁から戦国時代の小田原が見えてくる。



通行人と比べると土塁の高さがよくわかる。
土塁の東側を通るこの道は、総構が築造された当時は川(渋取川)
であり、土塁の外側を囲む水堀として機能していた。
現在の渋取川は残念ながら暗渠になってこの道の下を流れている。

渋取川の外側には蓮池と呼ばれる湿地帯が拡がっていて、外敵の
侵入に対する備えは万全であった。














蓮上院土塁には太平洋戦争の傷跡も残っている。
土塁の上部が抉り取られたように窪んでいるのがよくわかる。
これは、太平洋戦争中に爆弾によって生じたものである。

太平洋戦争の爆弾着弾跡
太平洋戦争が終わりに近づくにつれ、日本各地でB29爆撃機
などによる空襲が激しくなってきました。
小田原市でも、昭和二〇年四月以降終戦まで、たびたび空襲
を受けました。
そして、戦争終結直前の八月一三日の午前八時三〇分ころ
小型機による空襲があり三〇名の犠牲者を出しました。
このとき、新玉小学校(当時新玉国民学校)も攻撃を受け、、
若い教員一名と用務員一名が犠牲になりました。
この空襲で投下された爆弾のひとつがここ蓮上院土塁に着弾
し、土塁が大きく損壊してしまいました。
戦国時代に小田原北条氏がが築いた土塁に、昭和時代の
太平洋戦争が残る大変貴重な場所です。
                         小田原市教育委員会
(小田原市教育委員会の説明板より)