八王子の景色   小峯御鐘ノ台大堀切(東掘)         [戻る]


戦国時代に造られた巨大な堀切。風雨や地震などにより崩落が進んで
いるが、遺構がよく残り、400年以上前の姿を想像することは難くない。
急傾斜な堀の壁、高い土塁、広く深い堀底、上から見下ろす北条の兵。
幅約20〜30m、堀底から土塁上部まで約12m、全国的にも最大規模
の堀切は400年以上前に造られた小田原城の外郭防衛線である。

小峯の大堀切
小田原北条時代の小田原城は、全国でも稀に見る規模の縄張りを持った
城郭として知られている。
その構築法は、内城(本丸、二の丸、三の丸等)と城下町を囲んだ大外郭
を設けて、城下町を戦禍から保護するとともに、城外に雄大な防禦線を張
ろうとする構えであり、当時これを「総構」「総曲輪」と呼ばれ、また大外郭
は土塁とその外堀とで作られているところから「総堀」ともいわれている。
小田原城総曲輪は、おそらく小田原北条氏三代氏康の永禄年間頃から
つくり始められ、上杉謙信、武田信玄による再度の来攻の経験などにより
次第に拡大され、五代氏直の時、、豊臣秀吉の小田原陣が始まる直前
の天正18年(1590)早春に完成したものと思われる。
現在ここに見られる空堀遺構は、小田原城中にある三丘陵即ち、谷津丘
陵、八幡山丘陵、天神山丘陵の分岐点であり、小田原城にとって最も重要
なところと思われる。この空堀、土塁は小田原城残存遺構の中で最大な
ものである。

                
(堀切付近に立つ説明板より:設置者未詳)


小峯の大堀切は3本の大堀切が並行に並び、八幡山の北西の尾根筋
を断ち切るという、非常に堅固な守備がなされている。
箱根方面から派出する尾根筋の先端を利用した古小田原城(八幡山古
郭)は、その尾根から攻め込まれやすいという地形上の弱点を、堀切に
よって独立峰のような加工を施している。
堀の途中に設けられたクランクもきれいに残っている。クランクは侵入者
に先を見通させない、直進を阻む、横矢を掛けるなどの機能を併せ持っ
ている。
(左写真)

堀底から見上げる堀切の姿は、八王子の滝山城の二の丸や小宮曲輪
などに巡らされた空堀の姿とよく似ている。