八王子の景色   早川口遺構                           [戻る]


「早川口遺構」の標識に従って、住宅地の路地へと入っていく。
この道でいいのか逡巡していると、路地の奥にその遺構が突然現れる。

国指定史跡小田原城跡 早川口遺構
                           指定 昭和52年5月4日
小田原城は、戦国時代に後北条氏の本城として関東支配の拠点であり、
政治・経済・文化の中心を担っていました。
小田原城は、永禄4年(1561)に長尾景虎(上杉謙信)、永禄12年(15
69)には武田信玄に攻め込まれましたが、三代氏康は籠城戦により退け
ました。これ以降、小田原城では相次いで改修工事が進められ、天正15
年(1587)までには丘陵部を取り囲んだ三の丸外郭を造営したと考えら
れています。
さらに、天正18年(1590)、全国統一を進める豊臣秀吉との戦い(小田
原合戦)に際しては、城下をも取り込んだ土塁と堀からなる周囲約9km
に及ぶ「総構」を造営し、小田原城の強化を図りました。
この早川口遺構は、小田原城総構の南西に位置する虎口(城の出入口)
で、その遺構は、二重戸張と呼ばれる土塁と堀を二重に配した構造となっ
ています。この場所は明治時代以降に屋敷の庭園として少なからぬ改変
を受けており、本来の遺構の姿を留めていませんが、外側の高さ2.8m程
の土塁や堀状の窪地などは当時の遺構の姿が残されたものと言えます。
                              小田原市教育委員会
(小田原市教育委員会の説明板より)


正面には雑草の生えた草地が奥へと続いている。
右手には説明板に書かれた土塁が緩くカーブしながら奥へと続く。

早川口遺構は、二重戸張(ふたえとばり)という工夫がされていたという。
小田原城は城下町ごと周囲9kmの土塁と空堀で囲んだ要塞都市だが、
城内外への出入口(虎口)を設置しなければならない。
虎口は、小田原を囲む総構の堅固さに見合うだけの、より強固な仕組み
が施されていなければ総構が意味をなさなくなる。
この早川口は、城の西南部の虎口であるが、この付近は海に近い平地部
であるため敵に攻め込まれやすいことから、守備を堅固にする目的から、
二重戸張を採用したのであろう。

上の写真は北から南を向いて写したもの。
南北に延びる空堀の遺構の西側に土塁がはっきりと残っていて、土塁の
上を歩くこともできる。
一方、堀の東側には土塁の名残のような盛り上がりが見られるが、周囲
の住宅の庭へと続いていて塀や樹木などがあるため、わかりにくい。
往時の土塁はもっと高いものであり、門や番小屋、あるいは矢倉などが
建っていたことだろう。