八王子の景色   大石定久公像                        [戻る]


由木・永林寺の裏手にある由木城跡の中に大石定久公像が建って
いるが、この像を初めて見たときは、太田道灌の像かと思った。
道灌が狩りの途中で雨に降られ、雨具を借りようと寄った民間での
「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだに無きぞ悲しき」の
和歌の逸話が連想される。

しかし、大石定久公の肖像画は無く、その姿も想像の域でしかない。
そうして作られたのが、この定久公像ということになるだろう。

従来は「木曽大石氏系図」に基づき、大石定久(系図では法名道俊)
が北条氏照を養子にし、その後家督を譲ったとされてきた。
系図以外の文書においては「大石源左衛門入道道俊」の名は確認
されているが、定久の法名が道俊と裏付ける文書等はない。

近年の研究により、氏照を養子にしたのは定久の子息、大石憲重
(大石綱周)であるとされている。
島根県の南八幡宮経筒銘に「大石源三源朝臣憲重」の記載があり、
氏照が幼名を「大石源三」と名乗っていることから、氏照は養父の
名乗り「源三」を受け継いだものと考えられている。






河越夜戦での北条氏康の大勝利を受けて、山内上杉氏の重臣で
あった大石氏は北条氏に下り、定久は氏照を養子として受入れ、
娘比佐を氏照に嫁がせて、後に氏照に家督を譲り、自らは戸倉城
に隠居したと伝わる。

しかし、北条氏への敵意は鎮まらず、反旗を翻そうとしたものの、
失敗に終わり、猿丸山で自刃したのだという。
この一連の話も「木曽大石氏系図」に依るもので、信頼性は薄いと
みられる。

大石定久とは、実在した「道俊」と同一人物でなのであろうか。
大石氏に関する大きな謎である。