八王子の景色   河井宗兵衛頌徳碑                                [戻る]



川口川沿いの道沿いの植栽の中に石碑が建っている。
傍らの石柱には、偉農 河井宗兵衛頌徳碑とある。

新しき技術を あみだすことは 難きことなり
君は、この難きことを なしとげて 世を益せり
『宗兵ヱはたか』 (麦新種)
『宗兵ヱつくり』 (麦耕作法)
『宗兵ヱ様入』 (技術伝習)
これらの名 世と共に長く残らむ。

と碑に刻まれていて、碑陰には

河井宗兵衛氏
  一八五二年 この地に生れ
  一九一〇年 逝く
     一九五二・二・一〇
              多摩地方有志

と書かれている









この碑が私が橋本義夫氏の建碑運動との出逢いでもあった。
橋本義夫氏は、郷土の発展に尽くしながら、正当な評価を得ないまま歴史に埋没
してしまった人々を掘り起こして顕彰する「建碑運動」に心血を注いだ。

河井宗兵衛という人物とその業績は次の解説板でよく判る。

江戸東京の農業  宗兵衛裸麦
明治時代から昭和中期にかけ、麦は欠かすことのできない主食でした。
川口村(現在の八王子市川口町)では農地の90%近くが畑で、多くの農家では畑
作りに力を入れていました。
河井宗兵衛は嘉永6年(1853)下川口堀口の生まれで農業技術研究に極めて
熱心で、特に裸麦の品種改良に精力的に取組み、4年余の歳月を重ねて「宗兵衛
裸麦」を生み出しました。本来、温暖な西日本の水田裏作に多く栽培されていた
裸麦は、関東の気候には向いていなかったので、冬の低温、乾燥などの悪条件を
克服して、良く実を結んだ「宗兵衛裸麦」はその耐寒性と品質、収量など、総合的
に優れた品種で、多くの農家の注目を集めました。明治末期には農業試験場も
他府県との比較調査に取り上げ優良品種とし、最盛期の昭和10年には東京府の
裸麦栽培面積の42%を占め、昭和17年には東京の奨励品種に採用されました。
                   平成9年度JA東京グループ
                   農業協同組合法施行五十周年記念事業
                   八王子市農業協同組合

(河井宗兵衛頌徳碑近くの解説板より)