鳥栖観音堂 [戻る]
「萩寺」の名で知られる長福寺の墓地の中にある石段を上がった先、
濃い緑の木々の葉の間に見えるのが、鳥栖観音堂。
「鳥栖観音堂」と書くと、「とすかんのんどう」と読んでしまいがちだが、
「とりのすかんのんどう」と読む。
観音堂に納められているのは、千手観音立像で、写真で見る限りは、
堂々とした体躯をした力強い印象の像である。
下川口小字片井戸の鳥栖観音堂は川口第一の古堂である。この堂
もとは小字黒沢御堂山と呼ぶところにある、後、火災に逢ひ、鴻の巣
山古鳥の巣といふ処に移り、又焼けて御堂が谷戸と称する処に移り、
最後に今の場所に移り来たと伝へる。別当長福寺は新義真言宗、
大幡山宝生寺末である。
(高橋源一郎『武蔵野歴史地理 第五冊 八王子地方』より)
鳥栖観音堂は、長い歴史を持った古堂であることが判る。
八王子市が発刊した『ふるさと八王子』という本には、観音堂に納め
られた千手観音像の写真とその説明が掲載されている。
火防の鳥栖観音
草いきれが立ちこめる石段を半ばまで登ると、お堂の屋根の金色の
梵字が目にとびこんできた。梵字からこのお堂に千手観音像が納め
られていることがわかる。
数奇な運命と伝説を秘めた鳥栖観音である。
ここ川口町の長福寺の住職が厨子を開くと、全身に力がみなぎって
いるかのような木造の観音像が現れた。
「行基の作といい伝えられていますから、約千二百年前のものです
」と住職は汗を拭いながら説明してくれた。かつてこの地一帯は水
の湧く沼がたくさんあり、松の巨樹が林立し、コウノトリが群棲してい
たという。鳥栖観音と呼ばれる所以だ。また、この観音像は二度もお
堂の火災にあったが、焼失をまぬがれたため火防観音ともいわれる。
天正十八年(一五九〇年)の八王子城落城の時には、火災に包まれ
たお堂の中から自ら飛び出し、近くの水田のほとりにさんぜんと輝い
て立っていた、という伝説が語り継がれている。その後、別の場所に
お堂は再建されたがまた火災にあった。しかし、観音像はまたも無事
だった。そのため、観音像は近郷近在ばかりでなく広く火消したちの
間で信仰を集めたという。
(東京都八王子市『ふるさと八王子』より)