高宰神社 [戻る]
高宰神社由来記
八王子市散田町五丁目三六番に鎮座する高宰神社は、日本南北朝期の終り頃、
京より高貴な御方が、故あって、かたく氏名をかくし(恐らく南朝の公家と思われる)
現在の御所水の地に居住したことから始まります。逝去後、由井地区の杉山峠に
埋葬され、後山田村広園寺境内の一角に一祠を建立し、小蔵主明神と号し、鎮座
したのが当社の起源であり今より約六百以前のことであります。
その後、何故か散田地区の古明神と言う処(現在のめじろ台4丁目)に移り、降って
正保慶安の頃更に、真覚寺境内に移しそこで高宰神社と命名し、現在に至ったもの
であります。
当社は霊験あらたかで、八王子が誇る千人同心部門の神として深く崇敬され、千人
町、散田町、並木町、山田町、めじろ台等の守護神であります。
高宰神社のご祭神は、按察知大納言、藤原信房卿と言われておりますが、一説に
は、高倉宰相某とも言い、また明治元年神仏分離の達しがあり、明細帳作成当時書
出したものには、伊弉諾尊いざなぎのみこととしてあるが、詳らかではなく、現在では、
藤原信房卿の説が最有力で、この説に定着しているようであります。
現在、神社登録簿には、神社は単に高宰の神となっております。高宰とは、高貴な
方の高と、宰相とか言われる大臣クラスのことと思われ、尊貴両方を取り入れ、高宰
神社の社ができたものと思料されます。
高宰の神が在世中の地を、御所水の地と言い、清水の湧き出していた所から「御所
水の神」と言われたのは、当時朝廷以外には御所の名は使用されなかったこと等
思い合わせると、余程高貴な方を想わせるものがあります。
(昭和六十一年八月総代記す)
高宰神社の由来はかなり長い文章だが、その起源は南北朝末期頃に遡り、京から
下って来られた高貴な方の墓所に建てた祠であるという。
南北朝の対立では、南朝方が京の都に攻め入り将軍義詮が近江に逃れるという
ことも起きている。
そうした戦乱から京を逃れて、武蔵国へ移ってきた公家がいたのかもしれない。
「御所水」の地名にも関わる興味深い伝承である。
境内からは散田の町が見下ろせるが、住宅が建て込んできているために、景色は
年々失われている。