八王子の景色   滝山城跡(1) 概略                            [戻る]


八王子市内には国指定史跡の城跡が八王子城跡と滝山城跡と2つある。
滝山城は、山内上杉氏の重臣であった武蔵守護代・大石氏が築城した城だと
伝えられている。

史跡 滝山城跡
滝山城は、武蔵国の守護大名大石氏(定重、定久)と小田原北条氏の一族(氏
照)の居城であり、規模の大きさ、縄張りの複雑さ、遺構の保存状態の良さなど
からみて、戦国時代の城郭遺構としては日本有数の遺跡である。
永正18(1521)年に大石定重が築城し、高月城から移転したと伝えられており、
その後永禄元(1558)年前後に定久の養子として入城した北条氏照によって大
改修が行われたと考えられている。
浸食の進んだ加住丘陵の一角に占地し、複雑な自然地形を巧みに利用した天
然の要害であり、特に北側は多摩川との比高50〜80mの段差をなしていて、
北から侵入する敵に対しては鉄壁の構えとなっている。城内は空掘と土塁によっ
て区画された大小80ばかりの郭群が有機的に配置され、外敵の侵入に備えた
心くばりは実に美事である。
大石氏時代には、現在本丸と呼ばれている主郭を中心として二の丸と呼ばれて
いる郭まであったと考えられており、小宮郭などその他の郭群は北条氏照時代
に拡張されたものと言われている。
永禄12(1569)年、甲斐の武田信玄が小田原攻略の途中に、二万の兵で本城
を囲み、二の丸まで攻め寄せるほどの猛攻を加えたが、城主氏照を中心に城方
もよくこれに耐えて守り抜き、落城をまぬがれたという。しかし、この戦闘の後、氏
照は武田に備える戦略上の利点から八王子城を築き、天正12〜15年ごろに、
その居を移した。
(東京都の説明板より)

天文15年(1546)の河越夜戦で山内上杉・扇谷上杉・古河公方連合軍を下し、
関東支配の足固めをした北条氏康は、山内上杉氏の重臣であった武蔵守護代・
大石氏に三男の藤菊丸(後の氏照)を養子として送り込む。当初、大石氏の居城
である浄福寺城に入った氏照は、後に、滝山城に移り城主となる。
滝山城は大石氏が築いた旧城(本丸と中の丸あたりか)を北条氏が大改修して
現在の規模にしたと考えられており、城内全域にわたって北条流築城術を見る
ことができる貴重な遺構である。

永禄12年(1569)、甲相駿三国同盟を破り駿河に攻め込んだ武田信玄に対し、
北条氏康は同盟により今川に援軍を送り信玄を退却させる。信玄は氏康に報復
するために軍備を整えると碓氷峠を越えて小田原へ向け進軍する途中、滝山城
を包囲して戦闘(滝山合戦)が行われた。
この戦闘の結果、氏照は新しい城の構築を考えることとなり、その後八王子城を
築城、滝山城下の町ごと移転していくのである。
氏照は信玄との戦闘を通して、滝山城が時代に合わなくなったことを感じたので
はないだろうか。滝山城は弓矢の時代には堅固な城であっただろうが、鉄砲に
対応できる造りではなく、時代の趨勢には合わなくなっていたのだ。
だが、この氏照の決断があったからこそ、今日見られる優れた遺構が残されてい
るのである。
(左図はインターネットホームページ「余湖くんのお城のページ」より転載させて
いただきました)