八王子の景色   弁天池                                             [戻る]


千畳敷から北を見ると、右に本丸、左に山の神曲輪がある。
その目を下に転じると、3段の腰曲輪の下に窪地が広がっている。
これが「弁天池」と呼ばれる池跡である。

数年前まで、ここは篠竹や灌木、雑草が一面に密生し、その上に蔦などが絡まり
ついて地形が見て取れなかったという。
地元のNPO法人「滝山城跡群・自然と歴史を守る会」が城跡の景観を取り戻そう
と伐採や下草刈りを行ったところ、弁天島とみられる遺構が出現した。

最近、この池の中の密集した篠竹を刈込んだところ、池の中に「中の島」が出現
しました。この島を実測しましたら、埼玉県寄居町にある鉢形城の弁天島と全く同
じ規模であることが分かりました。

(中田正光著 滝山城跡群・自然と歴史を守る会発行『滝山城戦国絵図』)

北条氏は水運や海運を利用していて、江の島もその根拠地のひとつであった。
水運の守護神ともされる弁財天は北条氏にとって大切な存在であり、小田原城に
は弁財天曲輪の名が残り、鉢形城にも弁天島が今も残っている。
江の島の弁財天を各所に勧請して水運の安全と発展を祈願したのだろう。

滝山城の北を流れる多摩川は、秋川と合流して水勢を強めてやがては江戸湾へ
と注ぐ。この水運により三田谷などの木材を小田原に運んでいたために、弁財天
の守護を必要としたとみられる。





弁天池の中の島の姿。浸食や崩壊で高さは低くなっている。

堤によって谷戸の水を堰き止めると、島の周囲は池となり中の島が池の中にぽっ
かりと浮かぶ。
そこに弁財天を祀っていたと考えられる。

千畳敷の下に広がる弁天池は、千畳敷を訪れる諸将や家臣などを接遇した観月
や宴会などの演出ともなったであろう。
多摩川からの比高50mの「天空の池」ともいえる弁天池は美しく映ったであろうし、
そこは城内における聖なる空間でもあった。

池は城の防御上にも大きな役割を果たしており、小宮曲輪方面から直接本丸を
攻めることは不可能となっている。













弁天池の堤跡。
かつては一続きであった堤の途中がV字形に切れている。
堤から下は滝地区へと落ち込む谷になっていて小さな沢が流れている。

V字に切れた堤の下の沢を見ると、丸い河原石がたくさんころがっている。
滝山城跡で河原石が見られるのは、本丸の引橋側の枡形虎口の敷石部と
本丸の井戸の周囲だけであり、どちらも多摩川から運んだものであろう。

江戸時代の地誌書「武蔵名勝図会」には、こう書かれている。

澗水築留跡
城山の西の谷より澗水の流れ出るを松の厚板を埋めなして築留めて、千畳敷
というところの北の大溜へ堰入れて大沼とせしと云。いまは築留も破れければ
高月村の谷へ流れ落ちて、そこより玉川へ落ちると云。ここの山合よりいまに
往古の松の板、澗水の溢れ流るる後に、この土木を洗い出せることありと云。

(植田孟縉著 片山迪夫校訂『武蔵名勝図会』)