八王子の景色   根小屋城跡(4) 南曲輪2                        [戻る]


南曲輪から空堀を越えて小曲輪に上がると、そこには
トラロープが張られている。

「この先には進むな」という配慮であることは明確だが、
自己責任の原則で進む。
ただし、ここから先は一般の方にはお勧めできない。
この道はただの道ではない。
人ひとりが通れる幅しかない、土橋状の通路なのだ。

これほどに険しく恐ろしい土橋は他の城にはない。
道はうねるようにアップダウンを繰り返し、
両側は崩れ落ちて露出した土は垂直に切り立つ。

ここから落ちたら、戻ってくることができるだろうか。
・・・そんな思いを頭に浮かべながら進む。
道の端は崩れる危険があり、歩くことはできない。
足元に細心の注意を払いながら進んでいく。










土橋通路の様子。
曲がり、うねり、北曲輪へと伸びていく土橋の幅は1mもない。

周囲の崖は、大きく崩れているところもあるのだが、
この土橋はよく崩れずに残ったものだと思わずにはいられない。
戦国期当時のこの道はどのような姿であったのだろうか。

眼下に見える谷はかなり深い。



竹林に入ると、左右に数段の曲輪跡らしき広い削平地が並ぶ。
さらに登ると、尾根上の南曲輪に達する。
南曲輪は丘陵の尾根に伸びた細く長い曲輪で、中程が1段高くなって
いる。
大きな空堀を挟んだ小曲輪(北曲輪から見ると馬出しの機能を持つ)
に、この段上から木橋が架かっていたことだろう。

それにしても、この南曲輪は南側の比高が低いため、敵方に攻め込
まれた場合、地形を頼りに防御するのは難しいように思える。
こうした場合、南曲輪を放棄して細い断崖である土橋通路を頼みに、
北曲輪へ立て籠る戦術を想定していたのだろう。
この場合、北曲輪は「詰めの城」として機能する。






土堀切の底から撮影したもの。
堀切の先は急傾斜の崖になっている。

右が南曲輪の台状の遺構、左が北曲輪へつながる通路の先端にあたる。
左右の高さがほぼ同じであることから、ここには木橋が架けられていたと
推測される。
もちろん、堀はもっと深かったに違いなく、遺構を観察すると障子堀のよう
な高まりも見られる。

危急の際には南曲輪を捨てて、北曲輪を詰の城として立て籠もるという
作戦も考えられていたことだろう。