八王子の景色   片倉城跡 (1) 概要                         [戻る]


片倉城は、「誰が」「いつ」「どのような目的で」築城したのか、謎の多い城である。

新編武蔵風土記稿には次のような記述がある。、
片倉村 古蹟 片倉城蹟 傳へ云、應永の頃大江備中守師親在城せりと
山田村 廣園寺 開基は大江備中守師親(後元春)(中略)、この人は大江廣元
七代の孫にて陸奥守親茂の子なり、(中略)本郡片倉の城主にて應永九年七月廿九
日卒す

また、原宿 高乗寺の項に『
開基は長井大膳太夫高乗、應永九年七月廿九日卒す
とあり、命日から判断すると大江師親と長井高乗は同一人物であり、片倉城の城主
であったということになる。

しかし、大江師親は毛利氏の祖であり、この八王子地域に住んでいたとは考えられ
ないとして、大江師親説は誤りであるとされる。
では、片倉城の築城者は誰かということになるが、大江広元の次男・時広の系譜で
ある長井氏が築城したということは間違いないようである。

大江広元の次男時広は、横山荘と出羽国置賜郡長井荘を譲り受け、長井荘に居住、
姓を長井に改称する。だが、それから150年程後に伊達宗遠の侵略を受け、長井荘
から横山荘に逃れて来る。そして湯殿川沿いの地に居を定めたと考えられている。
湯殿川という名も、出羽国にある「湯殿山」の関連で付けられた名であろうし、この地
域は、片倉城跡、椚田城跡、高乗寺、広園寺、真覚寺など長井氏に関わる史跡が数多
く残っている

写真はJR横浜線片倉駅のホームより撮影した片倉城跡




片倉城跡は市内で最も鉄道の駅に近い身近な城跡であるが、公園化が進んおり、
また、城の歴史が明確でないため、城跡としての認知度は低いと思われる。
私も城跡としては軽く見ていたが、今年1月に多摩考古学研究会主催の講演会で
西股総生氏の講演を聞いて片倉城跡の見方が完全に変った。


「片倉城の占地は、湯殿川と宇津貫川に挟まれた小比企丘陵の先端である。眼下
に両川は合流し、要害を形づくっている。城の下は、古川越道が走り、この道の抑
えが、この城の最大の目的であったろう。片倉城の創築は、大江氏の流れの長井
氏であろうと言われている。(中略)
しかし、現在の片倉城は、その縄張から見て、戦国盛期と見られ、少なくとも長井氏
は原型を作るだけだったはずである。
縄張は極めて合理的に作られている。1(以下左図(余湖図)の表記に従う)は主郭
で、2の方向に土塁を持つ。南に張出の枡形を突出させ、直下の横堀を抑える。この
枡形の下は、横堀となっている。下からのルートがあったのであろう。曲輪内には、
このルートの正面に櫓台を置く。周囲は横堀から腰曲輪となってめぐる。2との横堀
にも張り出しの枡形を突出させ、横堀を屈曲させる。(中略) 2は1に比べてやや大
きく、外に向けて土塁を作る。北に尾根が張り出すが、堀切で切断する。南に虎口
をあけ土橋で外へ出る。両側から横矢をかけている。この両側の堀は深く防備の厳
しさをうかがわせる。土橋は90度西へ曲がり、竪堀を入れる。これは馬出の役割を
果たす。そしてなお西へ向かうと堀え囲まれた小郭(左図3)の下を通る。この小郭
は敵を横合いから突くことを目的とし、たとえ敵に占領されても行き止まりの上、城
内からの攻撃にさらされ確保がむずかしい。この下から堀を回りこんで外へ出る。
この間のルートは、すべて城内からの攻撃をさけられない。2の外はかなり広い横
堀が入り、北で大きく曲げて谷へ流れこむ。(中略)
このように片倉城は、小さいながら極めて合理的な縄張をしている。似たプランとい
われる深大寺城と比べると、その差は歴然であろう。後北条氏がこの周辺を確保し
た大永四年(一五二四)以降の近い時期に、以前のプランをこわして新築に近い感
じで作りあげたものと思われる。」
(村田修三編「中世城郭事典」 1987 より)

(左図はインターネットホームページ「余湖くんのお城のページ」より転載させ
ていただきました)







西股氏作の縄張図を見てまず驚いたのが、上記の3の馬出と馬出を巻くように
二の丸の虎口へと続く大手道。そして本丸南の複雑な構造だった。
これまで、これらの遺構を知らずに「片倉城を見た」と思っていたのだ。
西股氏の講演から1週間後に片倉城跡に行きこれらの遺構を確認してみた。
大手道から二の丸虎口までは、深い堀の向こうに聳える二の丸の壁と土塁、
そして上り坂の虎口と横矢掛りなど滝山城の二の丸の南虎口によく似た印象
がある。また、3の馬出は片倉城独特の施設であると感じた。
また、二の丸の西から南はコンクリート柵が設置されているが、この柵の中には
土塁や空堀などの中世城郭の遺構が残されていること(ただし草木の繁茂が
著しい)を確認した。
片倉城の本丸から二の丸、馬出にかけての城の南側に見られる複雑な防御の
仕組みは、自然地形を利用した北側とは明らかに異なる築城技法だと感じる。
やはり、北条氏の手が加わっているのは間違いないだろう。