八王子の景色   浄福寺城跡(1) 概要                               [戻る]


3年前の夏の初めに浄福寺城に登った。
その時の感想としては「あまり見どころのない山城」だった。
八王子城築城以前の案下道を守備するための要害程度と判断し、
歴史遺構としての興味を感じていなかった。

だが、齋藤慎一氏の著書『中世東国の道と城館』を知り、その中の
『戦国期由井の政治的位置』を読んでからは、浄福寺城の存在を
見直さなくてはならないと思うようになってきた。
大石氏と北条氏による八王子地域の城郭の遷移について、従来は
木曽大石氏系図(伊藤家所伝)により『ニ宮城−高月城−滝山城−
八王子城』が定説となっていたが、同書では、『二宮城−高月城−
由井城−滝山城−八王子城』考察している。
由井城とは浄福寺城のことであり、大石氏の養子となった藤菊丸
(後の北条氏照)は、ここで幼少年時代を過ごしたとしている。

そうなると、浄福寺城が「見どころのない山城」であるはずはない。
3年前の登城は浄福寺の墓地から西側尾根を主郭まで往復したが、
このコースを選んだことが間違いだったようだ。

写真は、心源院から見た浄福寺城跡
中央に烏帽子状に突き出しているのが主郭、そこから右に張り出す
北尾根、正面に伸び落ちる東尾根、左に落ちる南尾根、西尾根が
見える。





インターネットホームページで「余湖くんのお城のページ」を知った。
このサイトには城郭の鳥瞰図(以下「余湖図」とさせていただく)が掲載
されていて、その図が非常によくできているので、これを参考にして
浄福寺城を歩いて、遺構を確認してみた。
(左図は、インターネットホームページ「余湖くんのお城のページ」より
引用させていただきました)


ここでは便宜上、
・余湖図でCの曲輪がある尾根を「西尾根」(3年前に歩いた尾根)
・余湖図でDの曲輪がある尾根を「南尾根」
・余湖図でBの曲輪がある尾根を「東尾根」
・余湖図で3の曲輪がある尾根を「北尾根」
と名付ける。

現在では、東尾根の余湖図5の曲輪の先に東へ落ち込む尾根筋
(余湖図では描かれていない)の先に大手口があり、そこから5やBの
曲輪を通るのが大手道であると考えられている。
齋藤慎一氏もこの尾根の複雑さに注目し、ここを大手道と推定して
いる。


市指定史跡 浄福寺城跡
  所在地    八王子市下恩方町三二五九
  指定年月日 昭和四十七年一月二十七日
浄福寺城は、新城とも呼ばれ至徳元年(一三八四)大石信重開城の
案下城(大石系図)と考えられている。
大石氏は、系図(由木伊藤家伝)によれば木曽義仲の後裔が信濃国
大石郷に住んでいたが、延文元年(一三五六)入間、多摩に十三郷を
得て多摩に移住し、秋多町の二宮から案下城、高月城(長禄二年)
滝山城(大永元年)と次第に大豪族となり城を移したといわれる。
現在の浄福寺の境域および後山には多くの遺構が見られ中世城郭と
して、また大石氏の経緯を知るうえにも貴重な城跡である。
   昭和五十三年三月三十一日
                          八王子市教育委員会
(八王子市教育委員会の解説板より)

※上記の木曽大石氏系図は、その記載内容に誤りがあることが指摘
  され、古文書等を基に系図の再構築が試みられている。