下原刀匠康重鍛刀の地 [戻る]
下恩方町の繊維工業団地周辺は小高くなっていて「上野原」と
呼ばれるが、その南東の北浅川に面した低地は「下原」という。
この下原の地に下原刀匠の石碑が建っている。
碑の正面には、
市史跡 下原刀匠康重鍛刀の地
碑陰には、
下原刀匠の祖周重が、永正(一五〇四〜一五二〇)の頃ときの
領主大石氏の招きに応じ、下恩方町辺名の地に来て鍛刀してい
たが、その後、隣接の下原の地に移り、以来代々、「内記康重」
と名のってこの地で鍛刀し、後、徳川氏より除地四丁八反を受け、
苗字、帯刀、麻裃着用を許され下原鍛冶山本一族の宗家として、
多くの刀工を育成したと伝えられる。
昭和四十三年三月二十一日
八王子市長 植竹圓次
八王子文化財専門委員会
管理者 山本康臣
康重は、二代目周重を名のっていたが、北条氏康から一字を賜
り康重と改名したという。(参考:八王子事典の会「八王子事典」)
辺名の地に始まった下原刀の作刀が下原の地に移転
したのは、周重を招いた大石氏の居城との関係が考え
られる。
大石氏は二宮城から高月城、そして滝山城へと居城を
移したというのが古文書等による通説であったが、近年
の研究で、大石氏が滝山城に移転する以前の居城は、
由井城であり、由井城は現在の浄福寺城を指す。
(参考:齋藤慎一 『中世東国の道と城館 「第十三章
戦国期「由井」の政治的位置」』 2010年)
浄福寺城の城下は川原宿付近にあったと考えられるが、
これに続く上野原や下原などもその延長として城下町
を形成していたのであろう。
その城下町に、城主は作刀集団を置いた。
辺名は城下からやや離れていたために不都合だった
とも考えられる。
下原刀は、大石、北条、徳川と、この地の支配者達に
保護されて、横川や元八王子などへと広がっていく。