廿里古戦場 [戻る]
高尾駅北口を出て、甲州街道を横断し、北浅川に架かる敷島橋を
過ぎると正面に見えてくるのが廿里(とどり)山。
永禄12年(1969)小田原城の北条氏康を攻めるために碓氷峠
を越えて進軍する武田信玄率いる甲州勢が滝山城に迫った際に、
小仏峠を越えて攻め込んできた信玄の別働隊・小山田重信勢と
滝山城主・北条氏照配下の軍勢が戦った場所である。
市指定史跡 廿里古戦場
所在地 八王子市廿里町
指定年月日 昭和三十一年七月二十八日 市指定史跡
平成十六年十月八日 市指定旧跡に種別変更
永禄十二年(一五六九)、武田信玄は小田原城の北条氏康を攻める
ために甲州を出発し、碓氷峠を越えて北関東の北条氏の諸城を次々
と攻撃し、滝山城攻撃のために拝島に布陣した。一方、信玄の武将
甲州岩殿城主小山田信茂は、甲州から小仏峠を越えて攻め込んだ。
滝山城主北条氏照の家臣、横地監物・中山勘解由・布施出羽守ら
は、十月一日にこの付近で迎え撃ったが、一戦にしてしてもろくも
敗れ去った。
この戦いで、氏照は滝山城の弱点と甲州口の重要性を感じ、小仏
峠に近い八王子城の築城を計画したと言われている。
平成十七年三月三十一日
八王子市教育委員会
写真は初沢城(椚田城)から遠望する廿里山。
信濃方面へ版図拡大を目論む武田信玄、関東制覇を目指す北条氏康、
京へ上ろうとする今川義元は、天文23年に甲相駿三国同盟を結び、
それぞれ後顧の憂いをなくす。
信玄は川中島で謙信と戦い、氏康は古河公方を攻め、今川は入京を
目指して進軍するが、ここで思いもよらない事態が生じる。
今川義元が織田信長に討ち取られる「桶狭間の戦い」である。
その結果、信玄は三国同盟を破棄して弱体化した駿河に攻め込み、
今川を援ける氏康と軍事衝突する。
そして、甲斐に退いた信玄が氏康のいる小田原城を攻め潰そうとした
のがこの永禄12年の侵攻である。
廿里山には北条の要害があったというが、戦いは甲州勢が勝利。
翌日、滝山城を取り囲んだ信玄の軍勢が籠城する城に攻撃を開始。
三の丸まで攻め込まれた城方だが、二の丸櫓門で必死の防戦をする
と、3日目に信玄は攻撃を中止し小田原へ向けて進発する。
この経緯は、江戸時代に書かれた軍記物『甲陽軍鑑』によるもので
娯楽小説的要素が多分にあるためすべては信じられないが、氏照
は、廿里合戦、滝山合戦、そして三増峠の戦いと、三度の苦汁を
なめる結果となる。
写真は敷島橋から望む廿里山。