中里介山妙音谷草庵跡 [戻る]
高尾山の自然研究路6号路の傍に東京高尾病院がある。
この病院の構内も、迷惑をかけない程度であれば登山路として
通行することができる。
構内をまっすぐ上がり、突き当たりの平地が二軒茶屋と呼ばれ、
かつて茶屋があった場所である。
そこから右に折れて、階段で山道に入ると湧水が流れ落ちている。
その山道の右は少し高くなっていて、草が生い茂っているのだが、
ここが、かつて中里介山が草庵を結んで暮らしていた場所である。
大正十一年四月、介山三十八歳の時、はここにあった名物の
千年樫の傍らに六畳二間の草庵を結んだ。
前年の五月に、二軒茶屋にあった佐藤旅館に投宿した後、裏の
一軒家を借りているのは、よほど此の地が気に入ったのだろう。
しかし、大正十四年四月、草庵を取り壊して奥多摩御嶽の窪の沢
に引っ越してしまう。
原因は、高尾山のケーブルカー工事が始まったためであった。
深山幽谷といった環境を愛していた介山であったが、工事に伴う
老樹の伐採やダイナマイトの轟音に悩まされたという。
今では、草庵跡の碑が建つのみで、当時の様子を知るすべもない。
中里介山妙音谷草庵跡
文豪中里介山尾山を愛し大正十一年(一九二二)四月
この地に草庵を結び讀書三昧の生活を樂しみ又大作
大菩薩峠の安房の巻小名路の巻及び随筆千年樫の下にて
等の作品を書き大正十四年四月まで安住の地とした
昭和五十年七月 多摩文化研究会長 持田治郎建之
(碑文より)