川口兵庫介館阯 [戻る]
秋川街道の『川口中学校入口』の信号横に「史蹟 川口兵庫介館阯入口」という
小さな石碑がある。
その碑の横にある坂道を上がると、「史蹟 川口兵庫介館阯」と書かれた大きな
石碑が空に向かって建っている。
調井台と呼ばれるこの丘には中世の頃豪族として栄えた川口氏の館があった
川口氏は武蔵七党の西党に属し草創の鎌倉幕府に貢献した 川口氏は応永年
間兵庫介幸季の時代に最も繁栄した
南北朝室町時代戦国時代へと歴史は移り関東は戦乱の時代をむかえた 川口
氏も一党を率いて関東の山野に戦い管領上杉氏の争いには扇谷定正の幕下
にあって勢威を振るい山内顕定と対峙した やがて武相の覇権は大石氏から
後北条へと移り隆盛を極めた川口氏も歴史の波に埋没していった しかしその
事績は今に残り圓福寺の寺宝大般若経典書に願主川口兵庫介幸季の名が見
られる これは大幡宝生寺の住職明鑁らの書写に依り鳥栖寺へ納められたもの
である 又長楽寺の都重要文化財薬師如来像や度重なる火災を免れて現存す
る鳥栖観音などに往時の繁栄を偲ぶことができる
宅地化に景観が失われつつある昨今郷土の歴史を後世に伝えたく嘗て川口一
族を涵養し法蓮寺を望むこの丘に有志相計り館跡碑を建立する
昭和五十六年五月
撰文 郷土史家 佐藤孝太郎
奥住忠一 書
(側碑の説明文より)
側碑の裏面には、
川口氏系譜
秀郷流藤原姓川口氏川口左衛門左利久支流川口佐内信久
と題して、川口家初代から三十三代までの名前が刻まれている。
この中では、第十一第兵庫介幸季が川口氏の隆盛期にあたる。
なお、「史蹟 川口兵庫介館阯」きな石碑の側面には
揮毫 八王子市文化保護財審議会委員 奥住忠一
裏面には
昭和五十六年五月建之
八王子市川口地区社会教育推進協議会
川口兵庫介館跡碑建碑委員会
と書かれている。
この川口兵庫介館阯を保存しようとしたのは、地元の有志達の力であった。